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| ■活動背景 |
| 2003年7月19日未明、九州北部に停滞した梅雨前線は、大宰府で1時間104ミリを記録するなど、福岡県を中心に激しい雨が降り、1日の雨量は300ミリに達した。その後も梅雨前線は、九州北部に停滞を続け、19日の夜半から20日の明け方にかけては、熊本県水俣市の1時間104ミリ81ミリをはじめてとして、広い範囲に非常に激しい雨が降り、1日の雨量は200ミリを超えた。 この豪雨により熊本県水俣市宝川内(ほうがわち)の集(あつまり)地区で発生した土石流は、犠牲者は、1997年7月、12キロ離れた海上まで押し流し、治山ダムを半壊するほどの勢いと規模だった。専門家規模の破壊力だったと指摘している。土石流の激しさを物語ように、犠牲者の遺体は短時間でかなり遠くまで流されている。発生から半日後に見つかった吉海タツエさん(75)の遺体は、熊本県河浦町沖の八代海に浮かんでいた。集地区の他の七遺体のうち五遺体は、約1.5〜6キロ離れた下流の水俣川などに埋れていた。 現地調査した国土交通省の専門家の試算では、犠牲者ともども家屋十戸をなぎ倒した土砂の量は直径にすぎないが、土砂は上流のコンクリート製治山ダム(幅約40メートル、高さ6メートル)3基のうち2基を半壊していた。治山ダムを管理する同県森林保全課は「土砂流に想定外の量の土砂が流れ込み、ダムの幅を超えるまで膨らんだ」としている。 崇城大学の村田重之教授(防災工学)は、6年前の出水土石流と比較して「距離的な近さだけでなく、安山岩を多く含んだ地層や死者・行方不明者の数など類似点が多い」と分析。「土砂の量は出水の方が多いようだが、山肌の削られ方などをみると、勢いは水俣の方がすさまじかったのではないか」と話している。(西日本新聞より抜粋) |
| ■被害状況(2003年9月9日 18:30) |
| ・人的被害 | 死者 23名 |
| 負傷者 25名 | |
| ・住宅被害 | 全壊 51棟 |
| 半壊 56棟 | |
| 一部損壊 135棟 | |
| 床上浸水 3,558棟 | |
| 床下浸水 4,188棟 |
| ■ボランティアとは |
| 東京へ帰る途中の車内で、携帯がなった。その電話は、消防団の方からだった。残り1人の行方不明者が先ほど発見されたとのこと。その団員のかたは、最後に「東京から来てくれてありがとな、今度は酒を飲みにこいよ」と言ってくれた。24日の夜、消防団の格納庫で話している途中で、部屋に飾られているある写真を見せてくれた。端に写っている方を指し、「そこに写っている奴は、今回の豪雨で亡くなったんだ。」と言っていたのを思い出す。前日の新聞には、あの豪雨の中、民家の人を助けに行った消防団員が、共に土砂に流され亡くなられていたことが伝えてあった。六分団十支部の団員だった。 今回の災害において、地域社会内の相互扶助が確立されている社会の中では何もできなかった。それは同時に、救援者意識を持たせるボランティアという言葉は、時には害になる事を指していた。困っている人を助けるということが、現代社会のでは「ボランティア」「プチボラ」と言われている。しかし水俣の人達にとっては、日常ごく当たり前のことをしているだけなのだ。災害救援も同じである。 何も特別な事ではなく、日常の一つとして捉えたときに、初めて救援者意識はなくなるのではないだろうか。その意識がなくなったときが一人一人の心が通じ合う瞬間であり、それがたまたま災害救援という言葉であったにすぎないのだ。 |
| 熊本県水俣市災害救援活動 参加者 | |||
| 江藤隼人 事務局員 千葉景介 国士舘大学4年 國井弘明 国士舘大学3年 |
山崎努 国士舘大学4年 大川義弘 国士舘大学4年 |
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| ご協力いただいた団体 |
| この復旧援護活動は、競輪・オートレースの売上金による (財)車両競技公益資金記念財団の助成金及び、 テント・ノートパソコン等の活動に必要な機材の貸与を受けて派遣いたしました。 |